昭和45年11月07日 朝の御理解
御理解 第95節
「世には神を売って食う者が多いが、此方は銭金では拝まぬ。神を商法にしてはならぬぞ。」
生活の為の神さま、まあ教会と言うか、これは勿論、取次者に対する教会者に対する、これは御教であると思うのです。けれども、仲々やはり、難しい事だと思いますね。人間が生活をしていくという事。食うこと。その事の為に、神さまを拝んでおる。又、例えば、お取次の御用させて頂いておると。なるほど神の用をたせば、氏子の用は神がたしてやると、という事などはもう普通では、仲々そういう境地は、開けてくるもんじゃないとこう思いますね。
自分の食べる事とか生活をしていく事とか、例えば家族の事等とかはもう、神さまに委ね任せてある。そして例えて言うならば人が助かる事が出来さえすればという精神、そういうような気持ちにとてもなれるもんではない普通では。ね、よくよく言うなら神さまの言わば心が分かり、よくよく神さまを信じておらなければ出来る事ではない。そのかわりにそこまでの神さまを頂くと言うか。
信じれるということになって参ります時に、そこから言うなら偉大な働きと言うかね、神さまの働きをそこに見たり聞いたりする事が出来る。行きづまった、行きづまったから、あなたはお道の教師にでもならんかという事は、これは本当の事じゃない、ね。行きづまったからもう何をして食べてもいけんから、金光さまの先生にどもならんかということは、る金光さまの先生で食べていこうちゅう事になる。ね、
大変難しい事だと思いますねぇ。ほとんどの例えばお道の先生方というのは、やはり何をしても駄目。そこでお道の教師になったという人がたくさん有る。そこに、どういう事になるでしょうかねぇ。何をしても、何をしても行きづまる。何をしてもいけない。そこに大きく言わば、御神意を悟る。これは神さまが自分を道の取次者に使うて下さろうとする御神意があるのではなかろうかと、思うようになる。
そこから言うなばら、いさぎよい心、神さまが私のような者でも使うて下さるなら、ひとつ御用に使うて頂こうと。ね、そこに初めて決心がつく。神さまが使うて下さるなら、御用に使うて頂こうと。そこにいわゆる決心がつく。そこのところの決心が言わばついた者でなからなければ、お道の取次者とは言えないし、又本当の役には立たないという事になります。そこでなら、これを例えば。
そこに神さまのそうした深い思いというものを悟ってから、人が助かる事さえ出来ればという心が生まれてくるように信心を頂く方の者、おかげを頂く方の者にもやはり同じような事が言えるのじゃないだろうかと思う。段々信心を極めていく。段々信心を深く頂いていくという事は、そこまでのところが出来てこなければならん。そこで信心をさせて頂き、お取次を頂いて、おかげを頂いていくうちに何が分かるかと言うと、自分の言わば持ち場と言うか、信心で言う、又は立場と言うか、ね、それがハッキリしてくる。
そこで、その持ち場立場のところに焦点を置いての信心がなされてくるようになる。そこから言うなら本当の事が出来てくると。言うなら本当な御用が出来てくるという風に思います。その本当な御用に対して、神さまがやはり本当な御用を、氏子の為の御用をして下さる。神の用をたせば、氏子の用は神がたしてやると仰せられる程しの事は、そういうやうな事。只お道の教師をしておれば立ち行くようには神さまがして下さる。
教会の御用でも一生懸命させて頂けば、うちの方は神様がみて下さると、というようなものであるならば、それは神をもう既に商法にしておるような感じであります。それが神さまを例えば、教師にお取立を頂くと。そのお取立を頂くまでに、神さまの深い願いというものを感じる。何をしても行きづまる。思うようになん。そこでこれは神さまが直接自分を神さまの御用に言わば、取次者にお取立下さろうとする働きがあるのではなかろうかと思うようになり。
神さまが本当にそういう思いで、自分の上に思いをかけて下さるならば、本気で御用に使うて頂こうというところから、お道の教師を志してもらう。段々信心を頂かせて頂きよって、おかげを頂く。段々神さまが分かってくる。言うならば、世のお役に立ちたいというやうな高度な願いというものが出来てくるようになる。そこで、そんならどういうような御用に神さまが自分を使うて下さろうとしておるのかという事になってくる。
そこへ自分の持ち場とか立場といったようなところがです、段々はっきりしてくる。そういう例えば、自分に対する神さまの願いと、又自分の心からそれを感じさせて頂けるようなものが、ひとつになった時にひとつの役創りといったものがハッキリしてくる。だから、その辺のところの例えば役創りというような動きと言うか、働きというものを各々が感じとらせて頂くところから生まれてくる御用。
その事こそが世のお役に立つ、その事が御神意の動くままに神の用をさせて頂く事であり、という事になるのじゃないでしょうか ですから、その役創りという事が大事になってくる。例えて申しますと、お芝居なんか例えば、ひと月ならひと月前から来月はこういうお芝居をすると。それで、どういう役は誰だと。役の割当てがある。そうすると、その役をもらうとその役をこなす事の為に役者は研究を始める。
いわゆるそれを役作りとこう言う。ね、様々なやはり工夫をそこにはこらされる。その役作りに専念させてもらう。そこに例えば、お芝居が上演ということになった時にです。その役作りの研究にも研究されて、言わば新しいその役作りが出来る。そこに大向こうからの拍手喝采があるようなもの。そこのところをひとつ信心の上でも分からせてもらう。まあ、様々なよい役につく。まあ大部屋と言いますかねぇ。
その他多勢というところも有ります。ね、だからこれは、自分の自覚というものがですねぇ。もう自分は平信者じゃからと言うておれば、いつまでたっても平信者。そこで同じ平信者の中でもいわゆる、その他多勢の中でもです、やはりそこのところの役創りと、どういう小さい役でもですね。あれは、私テレビかなんかで森繁久弥が、まあだ大部屋時代に時代劇で駕籠かきをやった。何でもない役である。いわゆる雲助の役である。
それが雲助の役をもらった時に、その雲助とは、どういう風にその演技をしなければならないかという事を大変研究した。ね、そして、同じ相方、ね、雲助ですから、籠をかくのですから二人がいるのにもう全然その片一方はもう雲助ぐらいだから、自分はどうせ雲助、別に顔が大写しになる訳ではなし、いわゆるクローズアップされる訳でもないのだからという程度の人と、いわゆるその雲助なら雲助というのは、どうなからにゃならんかという事を研究して出て、初めて認められたと言うておりますですね。
その雲助が素晴らしかった。例えば後姿だけだったかもしれない、けれどもそこに、その役創りの工夫がなされておる。そこに見いだされるという事になってきた訳です。もう今はおばあさんに・・?ますね。あの飯田蝶子なんかって人もやっぱそうだったらしい。もう俳優が好きで好きでたまらん、けれどもあんな器量の良いっていう人じゃないですねやっぱり、ま、三枚目的な役をいたします。
それを無理に頼んでその初めて出た映画が何でしたかね、あのえんやこらせですよね、あのどうぜきを付くおなごに雇われた。ま、そのエキストラですよね。ま、それでもその映画に出られるちゅうのでやっぱり、大変色々工夫したちいう。ほいであのほうかむりをしてから、こうやって綱をつく役ですから、もうなんでもない。どんな人でも出来る訳なんです。そのカメラが自分の方へこうやって向かって来る時にですね、こうこうやってお尻を掻いたちいうんですよ。これがその工夫だったらしいんですよね。
そのおしりの掻き具合がよかったち。あのあれはちょっと物になるぞ、と言うふうに監督が目を付けたという話があります。やれやいとこらせが出しじゃないですかね、ちょいとその工夫が。そこに、自分のそこに役と言うものが、役どころというのが段々決まって、ね、そういう役の場合はどうでもこの人でなからにゃいけんというような事になってきた。私はその何年たっておってもね。
この人でなからにゃならんというような、例えばその役を自分で頂ききらないくらいな役者であったり、又は、信心で言うなら信者であったりしては、もう本当につまらんと思うですねぇ。ですから、ならその役を頂いたなら、今度はその役作りの事の為に、もう自分は総代だからと言うて、ちゃんとあぐらをかいとったちゃ出来ん。総代なら総代として、どうある事が本当に神さまに喜んで頂く総代か、ね、と例えば、いう風な工夫がいよいよなされていかなければならん。
昨日も、昨夜に皆さんに話聞いて頂いたんですけれどね。先日、今ご承知のように、ひと晩おきに典楽のお稽古があって、男の楽人さん達、笙、篳篥が一晩おきにあっとります。中に椛目の田中さん、定男さんが笛のおかげをい頂いておる。その三つの楽器の中で笛が鳴るということにおいてはもう一番難しいですね。鳴らす、笙でも篳篥でも鳴るだけなら簡単に鳴る。誰でも鳴る。
けども難しいのはやはり篳篥なんか大変難しいとされてます。その代わり笛はなるようになったら、あとは見やすいと。それを鳴らす為に一生懸命、笛を自分のうちに持って帰って家に持って帰ってから稽古をしておるのですが、少しは鳴りだしたやうですねぇ。で、やっぱ嬉しいもんですから、その合間合間にあの私が先日、稽古の時に御祈念が終わってからあちらも終わろうとしておる時にね、参りましたら、あの人が調子にのって、もうえらいそれこそお話をしますもんねぇ。
まめらん口でもう、こうこうしてからその話しますですたい。自分な一生懸命吹くけん、私があの、もうそげんおしゃべりしなさんなと言うてから、私が口に手を当てて、こうこうしようと思うたんですよ。もうそげな話はしなさんなち。言おうと思うてこうしようとした瞬間にですね、チャリ役と頂きました。チヤリ役というのは、歌舞伎で言う言葉ですがねぇ。ま、言うなら、三枚目という事なんです。
神さまは、そういう例えば役前を果たさせようとしておられる。まあ、悪い言葉ですが馬鹿の一芸という事を申します。ね、一芸、ひとつの事に熱中する、熱心する事によってそれが成就する。そこに例えば田中定男の助かりを神さまは、願っておられるという感じが 致します。もうあげんとじゃから役に立たん。といったような考え方じゃない。自分も一生懸命なら、やはり神さまもそこんところに、どうしてもひとつのお芝居ならお芝居があれば、その中で様々な役が要る。
取り分け三枚目なんかいうのは絶対に必要な役である。チヤリ役だと、これも昨日総代の熊谷さんが今、朝、昼、晩と御祈念にああしてお参りになります。幹三郎の事がこうして特別御祈念があるやうになってから、四時の御祈念に参ってみえる。どんなに考えても暇があるからだけでは出来る事ではありませんですよね。所がふっとその昨日、感付いた事は、是は自分なあの人は暇人じゃで、もう金光様に日に三辺も参る。
これは、自分は出すぎよるとじゃなかろうかと、というようなお届けをここでされましたらね、まあ言うならですね、言うなら、自分の子供の為にこうしよる。だから、ちった都合ようその大体人間的なら、それに総代にの・・・?、それこそあの、神さまはそっちの方は向こうともなさらんという感じでしたよ。そううお届けをなさった時に。そしてから、それのお届けが終わった時にですね、
熊谷さんに対してからの御理解がですねぇ、そげなこつ聞いちから私が知るもんのちゅうごと。神さまがね、その事を熊谷は出すぎよると思いなさるか思いなさらんか。それは思いなさるかもしれん。けれどもね。熊谷さんあんたが四時に幹三郎の為に、又わざわざ新たな思いで幹三郎の為にお参りになるという、是は又事実ですけれども、ま四時の御祈念に参ってみえる時に私はね、御祈念に力がはいるて私は申しました。
なるほど朝、昼、晩なんていう事は暇人でなからにゃ出来るこつじゃない。いかに暇人とはいうても一家を抱えておられ、一人で娘さんと二人ですから、家に用は用としてある訳なんです。けれどもやはりそこに工夫をすればそんなら往復六里の道を日に三回もお参りしょうと思やぁ出来るのである。ね、同時になにか特別の仕事があるかなんかちゃ、出来るじゃないて。例えば暇があるならあったからと言うて出来る事じゃない。
けれどもそれをね、毅然としてそれをやってのけようとする、その思いというものがね。私が御祈念の時にもうほんとに有り難い御祈念が出来る。一人の為にです、四時の御祈念の時に力が入るという事になれば、それはどういう事になるか。だからその事に対しては出すぎる、出すぎらんという事の返事は致しませんでしたけれども、ね、まその事を非常に深く、ま、感じたと、昨日、夕べは、又参って来て言うておられますが。
私位な者の例えばなら自分で出すぎよるとじゃなかろうかと思うような信心が、そのように例えば、親先生の御信心に響く事であるならば、これはどうでもおかげ頂かねばならんという気持ちになられた。定男さんがチヤリ役に使われておられるように、あなたの場合ならどういう事であろうか、まあ言うならひとつの仙台萩なら、仙台萩のお芝居で言うならば、なら正岡の役でもするような、いわば事ではなかろうか。
それこそ、根性も要りゃ気骨もいる。辛抱役でもある。ね、それこそ芸の中ででもです、それこそ自分の実子を殺されて、も涙一滴に目に持たんという程しの、女のそういう強い性格をです、ね、芸の上に表していくようにです、合楽ではです、そういう例えば、女の総代の中でもです、毅然としたです、ね、そういう例えば、ひとつの教会愛というようなものがです、教会のひとつの大きな難儀に、節に直面した時にです。
そういう役前を果たせれる信者が一人位あってもようはなかろうか。素晴らしい事ですよと、ま、言うてお話をした事です。そこに初めて、自分の役前というものを実感された。総代として又は婦人総代として、または合楽教会の中に一人位は、私のような例えば暇人がその事にうってかかられたというような信心が出来る者が一人ぐらいあってよかろう。そういう役を私に受け賜らせて下さいと言というところからです。
人がなるほど、ちったぼうけちゃござらんじゃろうかと言う、そういうような事は問題でない事になってくる。昨夜も企画の方達の会合あっておりました。遅うまで私炬燵の間で西岡さんとま、いろいろお茶ども頂きながら話させて頂いておったこと。先生の信心の初めの頃、いろいろ御教で頂いておりますけれどもと言うて、まあ、普通御理解ではあんまりお話ないような事柄をまあ、お話させて頂いた事です。ね、
たまたまここに、御神縁を頂いておかげ頂くようになって、おそらく自分は、もう一生涯金光様の御信心、いや合楽の信心から離れる事は出来ないだろう。そしていつもあの光男さんと一緒ですから、ここに見える時には、その言うなら菊栄会の方達が集う、又企画の方達が集う時に、自分は企画にも入ってなければ菊栄会でもないですから、自分一人だけぽつんとその終わるまで待っとかにゃならん。その待っとる間にね。
いろいろの事を考えるとこう言う。私も何とかここでひとつ、まあお役のひとつも頂きたいもんだなと、もうほんとに時々真剣にそれを思う時があります。ね、本当に合楽に浸りこませて頂いて、もう先生の足腰でも揉ませて頂けれるような御用にでも、使うて頂きたいというような衝動にかられるような事もあります。いわゆる、まあだ今のところ西岡さんの場合は、まあ大部屋でしょうねぇ。今日の御理解で言うなら。
まあだ信者さんも、まあだなじみが薄いし、まあ時々、福岡から肥えた人が参って来るのは何という人ですかという位なところである。けれども、段々に信心が分かってきたらです、自分も何か役のひとつでももらいたいというやうな願い。もし役が与えられたら、ま、本気で自分の役作りを工夫される方だろうと、私は昨日聞きながら思うた。そこからですね、生まれてくる信心、そういう信心がです、私は今日は全然角度の違った頂き方をしますなら、神を商法にしてはならんぞとおっしゃる。
おかげを頂くけんお参りしよるとといったもんじゃない。ね、神さまの用をさせてもらや、ね、神の用は、氏子の用は神がたしてやるとおっしゃるから、御用させてもらうといったもんじゃない。ね、ここに座らせて頂くのも、ね、食べる為にここに座るといったやうな生やさしいもんじゃない。もうこれは大坪総一郎だけにしか出来ん、お前だけしか出来ん。取次の御用でもさせて頂くからにはです、神さまがそういう願いをこちらが悟らせてもろうて、よし神さまが使うて下さるなら使うて頂こう。
人の助かる事の為に自分が使われるものなら使うて頂こうという言うなら姿勢をここに神さまの方にも示させてもらい、信者の方にもそれが示せれるだけの信心にならなければ、ね、これがもし食べていく事の為の家族をまかのうていく事の為のもしここであったならばです、それはもう既に神を商法に使っておるのも同じ事。ね、意味は少し違うかもしれませんけれどもです、ね、只おかげを頂くけん十年も二十年もお参りしよると言うて、役どころのひとつも無いといったような事は実に恥ずかしい事なのだ。
何かとこう言われても、いいや私はと尻ごみするやうな事ではね、もし神さまが使うて下さるなら、出来ません、出来ませんけれども神さまにお願いをして、そういう御用のひとつもさせて頂く。それは、もうおかげ頂く為じゃない。そして、その役が与えられたかぎり、本気で役作りに工夫させてもらい、焦点を置かせて頂いてです。工夫させてもろうて、その御用に専念させてもらえれるという生き方こそがです。
これはもう、おかげを頂かにゃならんから、神さまの御用させてもらいよるあ神さまがうちの事はして下さるけんそうするといったようなものではなくてです、その役作りが素晴らしかれば、言わば言うなら大向こうからの喝采があるようにです、神さまは、その氏子の上に目をかけなさらんはずがない。そこのところがね、いい加減になるような事であっては、只参るとは参りよるばってん、時々は、お世話に位行かにゃなるめぇ。
時々は、お掃除のひとつぐらい、お手伝いでもさせてもらわにゃいくめぇと。お手伝い位の事で出来るはずがない。金光さまの御心が。ね、本当にその身から打ち込んでの言わば御用であり、しかもそこにはです、ね、これだけはと、自分のお便所のお掃除だけでも、いやお便所のなら履物を揃えるだけの事でも、どこの庭ひとすみでもよい。ここだけは自分がという位なものを自分が自分がそこに発見して、そこんところに私は、御用の焦点をいわゆる一心乃眞を捧げて、そこに願う事の信心といったやうなですね。
信心が育っていくならば、それは神を商法にという事ではない事になるのじゃないでしょうかねぇ。それぞれの役を頂いておられる方達はです、ひとつ、もういっぺんその自分の役作りをね、本気で私は考えてご覧にならなければいけんのじゃなかろうか。そういう役を承っておるけんさせて頂く。とても私じゃ出来ん、出来んち言うたらできんのである。そこんところを縋っていき、願っていきして、ね。
その役作りの上に苦心させてもらう。工夫させてもらうというような生き方にお互いならして頂かなきゃいけんと思いますね。銭金では拝まんと。もうすでにそこにはにね、おかげとか、そういう事ではないという事なんです。それでも最近は、願い願いと言われるじゃないかと。ね、だから、それはやはり願わなければ神さまもお淋しいところもある。それを純粋な心でとか、ね、言われておりますけれどもです。
だからそれはもう願うと言うても、私の為の願いではない。教会愛がそう願わせるのだという願い。言うならば、世のお役に立ちたいの一心が願い。もうそこには、自分という事じゃないのだ。そういうところに、ひとつ自覚させて頂ける信心。そこから、自分の持ち場、又は立場といったようなところをこの御用だけは、私でなきゃ出来んのじゃけん、ここにはひとつ本気で焦点を置かして頂こうといったようなね、いわゆる持ち場をひとつ各々で工夫させて頂いて、頂いていかなければいけんと思うですね。
どうぞ。